第1回ゲスト:濱吉清太朗さん(紙魚 主宰)「社会って"生身の人間によってできている部分"が大きくて、そこに気づいた」 聞き手:平井寛人(尾鳥ひあり)

佐藤佐吉演劇祭2022の関連企画として開催される『見本市』
活動最初期にあたる9団体を選出し、ショーケース型の公演を行います
【公演詳細】
佐藤佐吉演劇祭2022 関連企画 ショーケース公演「見本市」
2022年4月7日(木)ー10日(日)@北とぴあ カナリアホール

みなさん、はじめまして。インタビュアーの平井です
見本市の"カタログ"をつくろうと始まった、このインタビュー企画
未知の存在ーーUMA(ウルトラ・ミラクル・あたらしい)でもある、なんともキュートで愛くるしい彼彼女らの"これまで”と"これから"を聞き出してきました
ここでしか聞けないような話も目白押しなんです。ぜひ最後まで見ていってください!
「見本市カタログをつくろう」第1回目のゲストは紙魚主宰の濱吉清太朗さんです


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【ゲストプロフィール】

濱吉清太朗 
https://shimisilverfish.wordpress.com/%e6%bf%b1%e5%90%89%e6%b8%85%e5%a4%aa%e6%9c%97/
(紙魚 https://shimisilverfish.wordpress.com/)


2001年生まれ、静岡育ち。
小学生の頃より静岡芸術劇場(SPAC)等で演劇に親しみ、演出家を志すようになる。 
2020年  日本大学芸術学部演劇学科舞台構想コース入学(演出専攻)
同年    江原河畔劇場演劇学校「無隣館」入館
2021年より本格的に表現活動を開始。
・「カガクするココロ」(作・演出 平田オリザ)出演
・紙魚 第1回公演           
 「三作連続上演〜人間、の声・サロメ・チロルの秋〜」 構成・演出
・「祖母の退化論」(作・多和田葉子 演出・和田ながら 出演・布施安寿香)三重公演  演出助手
・「水の駅」(作・太田省吾 演出・金世一) 出演

〜おうち時間にオススメの一品〜
リン=マニュエル・ミランダ「ハミルトン」

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自然に舞台芸術に触れる機会が多かった

濱吉私の親は"転勤族"だったので、千葉→名古屋→金沢→徳島→静岡→オーストリア→静岡と転々としました。
   名古屋で幼稚園児だった時に、「劇団四季」を観劇したのが最初の"舞台芸術との出会い"です。そのあと小学生の時に、徳島で阿波人形浄瑠璃」に出会いました。これは普通の文楽より人形の頭が大きいんです。

   あと1番大きな影響としては、静岡に住んでいる時に「SPAC(静岡舞台芸術センター)」現代演劇に"衝撃"を受けたことです。その後は、オーストリアで"オペラ"を見たりして、という感じで"いろんなところでいろんな舞台芸術に触れてきた"いうのがの"ベース"としてあるなと感じています。
   なのでは、演劇の演出家になりたいというより、オペラもやりたいし、ミュージカルもやりたいし、「いろんなものを演出したい」いうのが根本にあります。小さい頃からずっと俳優ではなく、演出家になりたい思っていました。恥ずかしいというのもあるんですけど、自分は出る方じゃないし、「"自分の身体を使わずに世界を作っていく"という方が得意かな」と思ってい
   演出を学ぶために東京の大学に入学しました。入学したのが2020年で、ちょうどコロナ禍でした。「オンライン授業ばかり受けていてもしょうがないな」なんて思っていた時に江原河畔劇演劇学校の「無隣館」の募集があって、そこに応募して初めて演技をしました。そういうわけで「演出家になりたい」と思っていたんですけど、ただ最近は演技の方にも興味が出てきました(後述)。    そこでいろいろ演劇を勉強して、戻ってきて紙魚を立ち上げて、第1回公演をしたり他団体では"演出助手"や"舞台出演"をさせてもらって今に至る、という感じです。

   親も最初は「劇団四季」とかに連れていってくれてたんですけど――例えば人形浄瑠璃は祭に行けば絶対にやっていたり、自然に舞台芸術に触れる機会が多かったです。
   それから、わりと私は小さい頃からなんでも1人で勝手に行動しちゃっていたので、小学生の頃から一人で観劇にいったりもしていました。当時は"大人の仲間入りをしている気分"でいたのですが、後から聞いた話では大分目立っていたらしいです。
   ウィーンの立見席は400円くらいだったのでお小遣いの範囲で頻繁に通うことができました。いろいろ知る機会に恵まれていたと思います。

   先ほどなんでも演出したいとは言ったんですけど、基本的に私は「舞台上で繰り広げられるものも演出をしたい」というのはあります。
   "映像の演出"にも興味なくはないんですけど、例えば映像を演出するなら――寺山修司さんの"実験映画"みたいな、"演劇的なものを基盤として"演出したいなと考えます。
   興味の根底は全部演劇・舞台芸術にあって、そこを演出したい。

    


(紙魚第1回公演『三作連続上演』より、劇中写真)

丁寧に観るということ

濱吉:ほんとうにとにかく"観劇が好き"です。    音楽の趣味をとっても、"全部が演劇出発"だなという感じです。例えば作品の題材にとられている人物だったり、いくつかのものを辿っていってその先に"弘田三枝子"がいるみたいなことがあったり――全部、演劇から繋がってい

   今月(2022年1月)は、「カミノヒダリテ」「死んだと思う」「INTO THE WOODS」「THE PRICE」等を観劇しました。ただ、これだけ演劇が好きと言っておきながらあれなんですけど、最近東京での観劇に飽きてきた感じもなくはないです。

   去年観劇したものを年末に振り返ってみたんですけど、面白かったものの大半が京都だったり"東京以外で創られている作品"だったんです。
   それは別に「京都がいい」「三重がいい」「静岡がいい」ということではなく――あくまで私が観てきた作品の話ですが、東京では大量生産の、「"アイデアだけのお芝居"がものすごく多い」という印象を抱きました。そこら辺に対する飽きというのがあります。

   自分が作り手に回ったことで、それに気づきやすくなったっていうのもあると思うんですけど、今年はちょっと観劇から離れてみようかなという気もあります。
   今年は映画ももっと観たいし、本も読みたい。去年はなんでもかんでも観ちゃったという感じがあったので、丁寧に観るということを自分自身忘れている感じがありました。"観劇をする"にしても「少ない作品を一つ一つ丁寧に観ていけたらな」と思います。
   例えば歌舞伎座は月ごとに演目が変わるじゃないですか。"月替わり"というのは結構、"丁寧に観る"のに役立つのかなとは思ったりしました。

オリンピック憲章

濱吉:今回参加する作品では最初、「”オリンピック憲章”に関する作品を創ろう」と思っていました。
   でも改めて今回参加してくれるメンバーと、オリンピック憲章を読んでみて、あんまり良くないんじゃないかなという感じがしています。

   オリンピックの開催前、報道が盛んな時に、1回パラパラっと読んでみて「これ作品にできるんじゃないかな」と感じました。その時は(大会自体にではなく)オリンピック憲章に対してちょっと"希望"みたいなものがあったんですけど、今回オリンピックが終わって読み返してみると、"権力的なもの"や"西洋中心的な面"が、オリンピック憲章の中で大きいように読めてきて。

   オリンピック憲章には、「包括していないものがないんじゃないかな」というぐらいいろんなものが含まれています。でも多分このまま舞台にオリンピック憲章をのせても、「価値のある作品にはならないんだろうな」という感じがあります。
   なので、もっと「自分たちの生活に近い言葉」と「遠く感じてしまったオリンピック憲章の言葉」といった「遠い言葉と近い言葉を合わせて舞台上にのせてみようかな」と今は思っています。


作品タイトルは「劇的なるものをめぐってまごつく二人」


濱吉:今回参加する作品のタイトルは「劇的なるものをめぐってまごつく二人」です。
   ”劇的なるものをめぐって”というのは鈴木忠志さんの早稲田小劇場時代のお芝居です。
   ”まごつく二人”は三谷幸喜さんと清水ミチコさんのラジオ番組のトークを文章に編集した「いらつく二人」とか「むかつく二人」という本があるんですけど、それっぽい感じでつけました。

   まず前半の”劇的なるものをめぐって”では、鈴木さんはあの年代に「劇的ってなんなのでしょうね」ということを作品にしました。「白石加代子さんが舞台上で本物の出刃包丁を振り回していたら実際に自分の体を切っちゃった」という事故が"伝説"として残っていたりしています。
   でも「2020年以降の”劇的”ってそれじゃあちょっと違うな」というか、「足りない」という感じがあって、そこに対してまず考えてみたいなというのがあります。

   "まごつく"というのは「どこへ行けばいいか分からなくてウロウロしている」という意味なんですけど。"劇的"というのを「どこに行けばいいか分からない」ものとして捉えて、この作品に”雑談”をたくさん入れようと今のところ考えています。

   "雑談"って"辿り着く先がないもの"じゃないですか。時間の終りがこないと終わらない。そんな感じで、「"創作過程でいろいろ探す作品"にできたらな」と思っています。

   最近、”想像力”というものに対して懐疑的になっていて。演劇は「想像力の芸術」だし、「俳優の想像力を受け取る経験」は私自身観客として何回もしてきているんですけど、その一方で、例えば"貧血"1つとってみても、「貧血ってこういうものなんだろうな」と想像していても、”実際に経験する”と違ったり、そういうことが"全部のことにありえる"じゃないですか。

   そこでやっぱり想像力の”暴力性”については考えざるを得ないなと考えていて、「”劇的”と”想像力を喚起させる”って結構近いところにあるのかな」なんて思わなくもないんです。「ワーってものを見せられて受け取っちゃう」みたいなこと。それを1回無くしてみるという意味で、”劇的”を考えようとしているのかもしれないです。まだ全然わかんないんですけど笑

   それで、「安易な想像力っていうのが劇的ではない」と言えるのかもしれなくて――までは今考えているんですけど。
   私も今それがなんなのか困っている1人ではあるんですけど笑 自分自身でも訳わかんないところにいっちゃってます。

   「オリンピック自体が"劇的"だったのか」というところから、まずは始めるのも"アリ"かもしれないです。そこから「"劇的"ってなんだろうね」というところに行く作品になると思います。

   オリンピックを個々の競技で見て、走る風景だとか――「結局団体競技とかでも人間って1人なんだな」と、スポーツを見ていても思う時があるじゃないですか。
   先程の話に繋げると、「想像力を働かせる時は1人にならざるをえないのかな」という感じもあります。「他人の想像力と自分のとのズレ」で「相手の想像力が邪魔になる」時がある。



(紙魚第1回公演『三作連続上演』より、劇中写真)


疲れたところから物語が始まる

濱吉:今回は「出演者が2名、制作が2名、構成と演出(私)が1人」という形になります。
   やり方として、今回は「制作の人も創作・内容に関わってほしいな」と思っていて、制作さんにも意見を出してもらって、みんなで「オリンピック憲章ってなんなんだろうね」と1回考えてみて、その後対面で会ってみて「"動くってなんだろう"ということを実際に動いて考えてみる」という感じで今は進んでいます。

   対面時は、"めっちゃハードに"動いてもらっています。
   "ハード "というのは「日常じゃない」ということで、”日常使わないところに肉体的な負荷をかける”という意味です。だから”速く動く”のが負荷の全てではなくて、集まった時に毎回やっているのは、太田省吾さんの「水の駅」を参考にしたものです。自分の1番ゆっくりのタイミングで立って、目の前にも人がいるんですけど、ずっと目を合わせたままゆっくり歩くっていうことをしたり、逆に走ってみたりとか、という負荷のかけ方です。

   さっき"想像力"について話しましたが、「疲れきった時にたぶん想像力って働かないんじゃないかな」という目論見があります。

   演技の中でだんだん疲れていくというのじゃなくて、”疲れているところから始まる演劇”っていうものを創りたい。「疲れたところから物語が始まる」ということを試したいなという感じで、今はいろんなものを試しているところです。

   「動いている時の人間の体って見れる」じゃないですか。「特に何もしていなくても見れる」というか。
   だからその逆に、”見れない身体”を作りたいかもというのもあって、そこで「”疲れている美しさ”を出さないにはどうすればいいんだろう」ということも考えないとなと思っています。

      

   


集団ってなんなんだろ


濱吉:第1回公演の時には学校のグループLINE上で「なにかやりたいんですけど興味ある人いない?」と呼びかけて集まった、全員"はじめまして"の人たちと創りました。その時は"その中から誰かを選ぶってことはしなくて全員に出演してもらう"形で公演しました。

   そのあとに「(紙魚の創作現場に)残りたいか残りたくないか」ということを聞きました。「普段の雑談は話が合うけど、創作とか作品のチョイスは合わない」というのも絶対あるじゃないですか。だから改めて、そういうところで選んでもらって。

   今は「紙魚を"出入り自由な形"にしたいな」とは思っていて、"登録制バイト"みたいなユルさにできたらなとは思っています。でもこの前メンバーに、「"紙魚の人ですよね?"と言われて"はい"とも"いいえ"とも言えないの困るんだけど」というふうに言われちゃって笑

   「劇団にしない」のは私自身"責任を多く負うのが怖いな"という感じがあって、人の「一生の数年」、もしかしたら「一生」を私の作った場所で消費しちゃうわけだし、もし私に何かあったら経歴に傷がついちゃうかもっていう。それで一応「形としては1人」という感じで、あとは"登録制バイト"みたいにしていたんですけど、そろそろメンバーを固定して、それプラス公演ごとに(呼びかける)というのもアリなのかなという感じもしていて。
   "集団"って難しいですよね笑

   1人でやっているというのも、「責任を他の人に負わせない」というつもりでやっていたんですけど、もしかしたら「1人でなんでもやっているような顔すんじゃねえよ」というふうに思われちゃうかもっていう。

   私としては「団体でもいいかな」とは思いはじめているんですけど、でもやっぱり"距離感の問題"ってありますよね。"集団"ってなんなんだろ。



   

(紙魚今作の稽古でダッシュした後にバテている俳優)


"対個人"になれた

――創作をするにあたってエンジンになっている部分はどんなものですか?


濱吉:前回の公演とかって、「自分vs社会」というものがあって、それに「役者が応えて演技してくれる」という感じだったんですけど、この数か月間の中で「誰と創りたいか」とか「誰にどういうことをやってもらいたいか」というのが生まれてきました。

   今まで自分の"世間に対するフラストレーション"とか"モヤモヤ"とかだけが、エンジンだったんですけど、そこに「”対個人”へのポジティブな感情が加わった」という感じがしますね。

   今回も出てくれる役者に、「この2人じゃなきゃいけない」というのはありますし、「いつかこの人に書いてもらって、自分が演出したい」というのもあったり、そういう意味で「信頼できる人を見つけられるようになった」ような気がします。

   自分はたぶん、世の中に対するフラストレーションが多い方だと思うんですけど、今まではそれが"中心"だった気がします。
   今は"対社会"というよりは、まずは身内のメンバーだったり、「個人に対してより一層考える」という方に、シフトしていっている感じが自分の中ではあります。


魅力的だったお芝居


濱吉:y/nの『あなたのように騙されない』という演目が面白かったです。
   "手品を使ったレクチャーパフォーマンス"で、「どこからが本当でどこからがフェイクかは本編中で分からない」、"真偽"についての作品でした。

   私はここのところずっと"当事者性や想像力"というものについて考えてはいるんですけど、そこに対する"シンパシー"というか"共感する部分"がありました。

   そして"レクチャーパフォーマンスという形式"も新鮮に感じました。「"真偽"をこんなに面白い形でごちゃ混ぜにできるやり方があるのか」と。

   やっぱり演劇って"フィクションを扱う"もの。そこで「本当と嘘をどう扱うかってすごい大事な問題」。
   でも「作品と作り手の切り離せなさ」というのは考えていて――例えばロマン・ポランスキーという監督がいるじゃないですか。彼の作品はレイプを扱う作品がすごく多いんですけど、彼って一方でレイプの容疑があるんです。彼がレイプをしたかどうかで、作品の見え方は180度違うものになりますし、そういった「"嘘"と"本当"の切り離せなさ」みたいなことについてこの作品を観ていて考えました。

   "どう生きてきたか"とか、"アイデンティティ"や"コンテクスト"。例えば西洋の戯曲をやる時に、日本に生きている自分は「コンテクストがまず違う」ということがあるじゃないですか。そこで"自分と役に大きなズレ"があったり。

   やる側の問題ともう一つ観る側の問題という部分があります。
   私が演出するにあたって「"創る"っていうより観客を代表している」という意識があって、それはたぶん私が”観劇オタク”だったこともあるんですけど、やっぱりまず「観て、どうなのか」ということだと思います。


   難民の方がインタビューに答えている映像のあとに俳優が再現するという映像作品があるんですけど、俳優が演じる方が"感動的に見えちゃう"んですよね。

   でも"実体験"を語っているのは"最初に出てきた難民の方々"の方。そういう意味で見る側からの「リアリティをもう1回考え直す」みたいなところには、すごく必要性を感じます。


(紙魚第1回公演『三作連続上演』より、劇中写真)


濱吉:あと最近考えているのは、「どんなに面白い演劇作品でも寝ちゃう事はあるのに、どんなにつまんないアフタートークでも寝ないのは、どうしてなんだろう」ということで。
   多分この2つは"身体のあり方"とか"見せる技術"というのが方法として違ったり、観客の態度も違ったりする。

   アフタートークって、「自分の思っていることとかを言う場所」だと思うんですけどそれに対して演劇は"嘘の世界"で、"嘘の方が聞いてて疲れやすかったり飽きやすかったりする"のかもしれない。あと"ストーリーの有無"もあると思いますけど。

   ここ何年かはTVerでテレビ番組を見ていて、「有吉の壁」「トゲアリトゲナシトゲトゲ」「全力!脱力タイムズ」とかを毎週見ているんですけど、"TV番組を選ぶ時も演劇的なものを面白がる傾向"があります。
   「有吉の壁」もすごく演劇。他のバラエティ番組も台本があるところとかは、演劇的といえば演劇的なんですけど、やっぱりそこを「意識的に誇張して見せる」という部分では先程挙げた番組はとても"演劇的"だと思います。

   基本的に"演劇的なものが好き"です。"構造の中で嘘をつく"というのが、もしかしたら好きなのかも。
   たぶん"嘘"が好きなんですけど好きだからこそ、そこに寄りすぎに注意しなくてはいけなくて、"ホントって部分や当事者性"についても、考えていかなきゃいけないと思う。


中身が豊かなのか


濱吉:自分の稽古場でもよく"雑談"をするんですけど、それを「作品に取り入れられたらな」と思う一方で、「自分は作演ではない」という思いがあって、「他人のテキストを1から10まで使って作れたらスゴいんじゃね?」みたいに思ったりしています。

   演出プランを考えるにあたって、私の場合は"思いつきから来ることが多い"です。思いついたらメモに書くようにしています。
   この前数えたら"3千いくつ"とかあって、「一生使いきれないかも」とは思っているんですけど――その中で"クソつまんないアイデア"もたくさんあるんですけど、そのアイデアの何個かが常に頭の中にはあって、「日常生活を送っていたらガチャって繋がったりする時があって、そうしたら1回時間をとってみて、ちゃんとそれが可能なのかってことを資料等を使って検証して、それで強度が確認できたら創作に移す」という感じですね。

   その時に「"自分の思想から逃れられないアイデア"で終わっちゃう感じ」はあって、結構"課題"だったりします。
   "アイデアが前提にある"から、どうしても資料も"正解を探すため"に選んじゃったり。

   "東京の小劇場の傾向"としては、「アイデアの芝居が多いな」というのは感じます。"面白いアイデアってたぶん最長20年とかもつ"と思うんですけど、「そこに身が詰まっていないとそれを過ぎた時に萎んでいっちゃうな」ということを、"60年代以降の演劇の歴史"を振り返っていても感じることがあります。

   その中でも市原佐都子さんの「バッコスの信女―ホルスタインの雌」なんかは、「"アイデアとアイデアのその向こうの加減"というものがすごく面白かったな」と思いました。アイデアに終始していなくて。

   私も「観て、なにをやっているのか分からない」という作品を創っちゃう側の人間だと思うんですけど、やっぱり「中身が豊かなのか」という部分はバレちゃうと、自戒も込めて感じます。




おうち時間にオススメの一品はミュージカル「ハミルトン」


濱吉:ディズニープラスでやっていた「ハミルトン」という"ブロードウェイミュージカル"は、ものすごく面白かったです。

   ブロードウェイって10年に1度くらい、"社会現象を起こすミュージカル"ができるんです。90年代だと「RENT」、oo年代だと「ウィキッド」、10年代だとそれがたぶん「ハミルトン」になるんだろうなという感じはしています。

   「アレクサンダー・ハミルトン」という"ワシントンの副官"の生涯を"全編ラップ"でやるミュージカルなんですけど、キャストのほとんどが"有色人種"。
   「歴史との距離感の取り方が上手だな」と思って、「じゃあ自分はどう舞台を創れるのか」と、とても考えました。

   "歴史との距離感の取り方が分からなくなる"時があって――例えば去年、井上ひさしさんの「父と暮せば」を観劇したんですけど、「ストーリーとしては分かるけどなんか分かんないな」という感じがあって、それは自身が"戦争と自分の距離感を見失っている"からなのかなと感じました。

   過去に観たマームとジプシーの「cocoon」では、自分たちなりの戦争との距離感の取り方が新しいものとして提示されていると思ったんですけど、私は「他人のテキストを使って演出家としてどう良い距離感を取れる作品を創れるかな」みたいなふうに、いろいろ考えさせられて良い作品だと感じました。

   "アメリカで社会現象になった理由"の1つが、"カッコいいラップなので若者が歌いたがる"というのがあったと思うんですけど、逆に私は"ラップの方が遠い存在にあったのをこのミュージカルで身近に"感じられました。

   ラップって反抗というか、下にいる人が上にいる人からの抑圧に反抗するみたいな部分があると思うんですけど――勝ち負けの問題ではないんですけど、ミュージカル等の音楽と台詞劇を比較した時に、「そのエネルギーに台詞劇は勝てるのかな」なんて思ったりしますね。ミュージカルも演劇だって言えばそうなんですけど。



(紙魚第1回公演『三作連続上演』より、劇中写真)


世界を理解したい


濱吉:私の将来の大きな目標として"オペラを演出したいな"というのがすごくあって、単にオペラをやるんじゃなくて――日本って、"西洋からオペラが輸入されて100年とちょっと"経つんですけど、「未だに咀嚼されきれていないな」という感じがすごくあります。
    "西洋から流れてきたものを、無理やり丸呑みさせられている"ような感じ。

   西洋の翻訳劇が"そんな状況"だったのを、変えたのが鈴木忠志さんだと思います。
   彼が演劇でやったことを私はオペラでやりたいです。そしてそのため(日本人なりにオペラを咀嚼するため)にはまず「"日本人ってなに? そもそも日本人は存在するのか?"というところから始めなきゃいけない」とも思います。

   「宝塚」も好きです。でも私の作品や考えていることは、"ジェンダー"が大きく関わってくるんですけど、例えば宝塚って結構「女は黙ってあとをついてこい」みたいな作品が多いじゃないですか。

   なのにキャストは女性だし、観客も女性がほとんど。「これってどういうことなんだろう」と迷路に迷うようなところもあります。
   "フェミニズム"とか"ジェンダー"に対して最終的には「理屈では解決できない得体の知れないもの」という意識もありますね。
   作品には不満を抱きつつも役者をみるために見続けている人も一定数いるんでしょうけど。

   主には"分かりたい"というのはありますが、やっぱり「人間は矛盾を抱えて生きているんだ」ということがまだいまいち私は理解できているようで理解しきれていないなと感じます。
   「どうしても白黒つけさせたい」というところもあります笑

   (女性全員がフェミニストというわけでないことはわかっているのですが)「一部の女性の観客たちが"男尊女卑的な作品"、しかも"そこに対しての批評性がいっさい無いもの"を観て楽しんでいる」という光景には"わからなさ"を感じたり――それは"私の頭が固いという部分"が多分にあると思っていて、そこで"折り合いの付け方"というのもあると思うんですけど、そこがまだ私は"上手くいっていない"。"他人が折り合いを付けているということ"もまだ理解できない。

   あと、"自分は女性の身体の方により共感を抱く"のですが、日常生活では「"男権社会であるが故の生物学的男性であることのメリット"を見て見ぬふりをして受け取ってしまってるのではないか」ということもあったりします。
   そのような"矛盾"ともっと向き合うことができるようになりたいです。

   でもこれ――よく「なんで役者もやっているの?」って聞かれた時に答えるものではあるんですけど、私は演出家をするにあたって「世界を理解したい」という思いが、"大きな柱"としてあります。

   初めて俳優をやった時に、「今まで人間抜きにして世界を考えようとしていたな」と思ったことがあって、世界を"構造"としてしか見ていなかった。
   それこそ"フェミニズム"とか"共産主義"や"資本主義"みたいな、そういう"構造"でしか見ようとしてこなかったことに気づいて。

   でももっと社会って"生身の人間によってできている部分"が大きくて、そこに気づいた時に「もっと人間を理解したい」という思いから役者も並行してやるようになったんですけど、やっぱり「全てのことを理解したい」というのがモチベーションとして1番大きいです。

      

演劇等で声を上げ続けます ※インタビュー後の寄稿


濱吉:このインタビュー(1月下旬)の後、作品の構想を完成させ「できた!」と一息ついていたところに飛び込んできたのはウクライナのニュースでした。今の私にこれを無視した作品は作れません。多分このインタビューの内容をガン無視した内容になると思います。でも私が今考えていることには違い無いので作品に何かしらの影響はあると思います。
 「自分と歴史(戦争の記憶)との距離の取り方がわからない」なんてインタビューで呑気に言っていた昨日が懐かしいです。1日でも早く戦争が無くなることを祈って演劇等で声を上げ続けます。

※次回は明日、海ねこ症候群主宰の作井麻衣子さんのインタビュー記事です。次回もまたお会いしましょう!

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